百物語

都市伝説|京都府・京都市上京区

崇徳院——日本三大怨霊の筆頭

伝承の範囲

白峯神宮(京都市上京区今出川通堀川東入ル)に崇徳天皇の御霊を祀る。1868年(明治元年)創建

記録の扱い
伝承・都市伝説として記録
参照情報
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最終確認
2026-07-09

血で書かれた呪詛の言葉が、日本三大怨霊の起点になったと伝わる。保元の乱に敗れて讃岐国へ流された崇徳上皇は、配流先で幾年もかけて仏典を書き写し、その功徳を京の寺社に納めることを願った。届いた答えは無情だった。後白河院はその写本を突き返したのである。

絶望した崇徳は自らの舌を噛み、流れた血で「日本国の大魔縁となり、皇を取りて民となし、民を皇となさん」と綴ったと『保元物語』は記す。1164年、彼はそのまま讃岐で没した。都では時を同じくして関係者の死が相次ぎ、旱魃と疫病、飢饉が重なった。1177年には清涼殿に雷が落ち、廷臣が死傷する事態にまで発展する。生きながら天狗となり日本を呪い続けているという噂は、こうした災厄の連鎖のなかで形を持っていった。

崇徳の魂は讃岐にとどまり続けると長く信じられてきたが、事態は明治維新の2日前に動く。1868年、明治天皇の命により御霊が京へ迎えられ、白峯神宮が建てられた。新政権が最初に手をつけた仕事のひとつが、七百年越しの怨霊鎮めだったという事実は、単なる偶然と片付けるには重すぎる。

球技の道具が所狭しと奉納された今の白峯神宮を見て、そこがかつて日本最大の呪詛の宛先だったと気づく参拝者は多くない。祟る神と守る神は、案外同じ社に同居している。

初出・流布時期(推定含む)

崇徳天皇(1119〜1164年)の配流・崩御後、相次いだ災厄が怨霊の祟りと結びつけられた。『保元物語』に詳述

類話・バリエーション

  • ・生きながら天狗になった型(保元物語)
  • ・御所に落雷をもたらした怨霊型
  • ・讃岐から魂が戻ってきた型

出典・参照

伝承の実在・流布を確認した日: 2026-07-09

本記事の内容は伝承・都市伝説を基にした読み物です。特定の実在個人・実在団体を指すものではありません。